2007年04月03日

沖縄県の歴史-戦争


戦争

太平洋戦争では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、沖縄戦がはじまる前の本土疎開では、学童を乗せた対馬丸が米軍の魚雷によって沈没した。

1945年(昭和20)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え侵攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の戦力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置して多くが日本軍と共に戦死した。住民が、日本軍によって虐殺されるという事件も起こったとされており、今日でも問題となっている。第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な沖縄戦は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。沖縄戦における合計戦死者数は約20万人とされ、うち約12万人が沖縄県民、アメリカ軍は死者・行方不明者を合わせ1万2千人であった。

戦後

アメリカの統治による琉球政府

戦争終結後、アメリカ政府は沖縄は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し、琉球が最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して沖縄を軍政下に置き、沖縄の各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、住民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから住民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、沖縄を返還する気は全く無かったようである。

1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

日本の施政下へ

日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45)に予定される安保延長と共に、沖縄の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。アメリカ政府にとっては、日頃温厚な琉球の人々が暴動をおこした事は大変ショックを受けた。

1969年(昭和44)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。1972年(昭和47)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、沖縄は日本へ復帰した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため、沖縄県民や沖縄に同情的な人物の中には「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者がいる。

この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。

現在

日本への復帰を記念して、1973年(昭和48)には若夏国体、1975年(昭和50)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。しかし、観光以外にこれと言った大きな産業がなく、完全失業率は長く全国一の水準にある。このため、沖縄県では1998年(平成10)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。また、2000年(平成12)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが多数の歌手を輩出して、全国的な人気を博した。その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、全国の75パーセントの米軍専用基地が沖縄に集中すると言ういびつな構造となっている。これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による沖縄県民への暴行事件などがしばしば起きている。とくに1995年(平成7)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄警察が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。強姦事件により沖縄県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。2004年(平成16)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が多い。

posted by 旅好き♪ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄県-歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。